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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)









11月の歴史の断片
01 戦時下に撤去の「ペリー記念碑」、戦犯を恐れた地元が再建。
07 明治政府、韓国を恫喝して不平等な日韓協約を強要。
10 天皇即位の裏で軍部と政府が密謀。激動昭和の幕明け・・・
15 歴史の舵をきった坂本龍馬に待ち受けた無情の死。
10月の歴史の断片
01 ソニー 世界初のCD発売。開発の舞台裏には楽壇の帝王カラヤンが・・・
05 徳川家康、キリシタン大名 高山右近を国外追放。
12 米の映画芸術科学アカデミー、超大物のプロデューサを除名。
14 英国の全面支援で鉄道開業。富国近代化の第一歩へ・・・
23 天皇陛下、初の中国公式訪問。反対が渦巻く中の皇室外交・・・
28 新天地へのモニュメント、「自由の女神」像が完成。
9月の歴史の断片
01 無残、戒厳令下の朝鮮人狩り・・・ 関東大震災。
05 日露戦争 辛勝。国粋主義者らが「屈辱の講和」と騒乱を煽動。
08 日本、「対日講和条約」に調印。連合国は日本への賠償権を放棄。
13 「風と共に去りぬ」、独立した日本で初公開。戦時には軍が密かに・・・
18 幕末のキリシタン弾圧で100人を超す殉教者。
22 陸軍、日仏協定を無視。節義なき仏印侵攻。
24 西郷隆盛、敗走の激戦地 城山に死す。
28 関白秀吉、朝鮮征服の妄想。「鼻を削いで首に代えよ」
8月の歴史の断片
01 明治政府、朝鮮の内乱に乗じて清国に宣戦布告。
06 午前8時15分、軍都 広島消滅・・・
10 長崎に2発目の原爆。帝国政府、中立国のスイスを介して抗議・・・
15 敗戦。焼跡の霞ヶ関界隈に立ちのぼった公文書焼却の煙・・・。
22 日本降伏から7日目に発令された停戦命令。一触即発の危機も・・・
27 蟹工船の漁夫労働者8人が暴行死、警察は事実を隠蔽・・・。

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151年前・・・慶応3年(1867)11月15日
歴史の舵をきった坂本龍馬に待ち受けた無情の死。

 前年の龍馬は、同志・中岡慎太郎と薩長同盟に成功。しかし、素行・風体の怪しい龍馬は、逗留先の寺田屋で伏見奉行の急襲に会い深手の刀傷を負った。この凶が縁で、龍馬は寺田屋の女中・お龍を恋女房とし、媒酌を中岡慎太郎が務めた。

 傷が癒えると、西郷の勧めで二人は薩摩へと湯治の旅。しかし、寺田屋事件で、捕吏を殺めた龍馬は罪人であり京には戻れない身となった。しかも、事件の現場には、薩長同盟仲介の証拠となる遺留品を残していたのである。

 そんな中で持ち上がったのが長崎の亀山社中(物流商社)。薩摩の西郷や小松帯刀の全面支援で創業に漕ぎ着けた。仲間は神戸海軍操練所時代の同志たちである。しかし、不運なことに船の沈没で同志を失い、やがて経営破綻。そんな龍馬と同志たちに朗報が転がり込んだのは、年明け早々のことだ。

 土佐藩参政・後藤象二郎に肝いりで脱藩を赦免された龍馬は、土佐藩を後ろ盾に「海援隊」を発足したのである。

 しかし、またも不運が・・・、大洲藩(愛媛県)から借り入れた蒸気船「いろは丸」が、夜の瀬戸内海を航行中に徳川御三家・紀州藩の大型蒸気船に追突されて、あえなく沈没。この逆境に、龍馬は凶事を吉に変えて見せた。

 見積もった「いろは丸」の損害額は積み荷を含めて4万8千両。これを龍馬は、紀州藩に8万4千両の賠償を土佐藩と海援隊に支払うことを認めさせたのである。現代の貨幣価値に換算して、21億から35億円ほどになる(日銀金融研究所貨幣博物館調べ)。その賠償金が、長崎で支払われたのは、龍馬暗殺の8日前のことであった。

■ 新国家構想の実現に向けて奔走する龍馬。

 龍馬暗殺の1ヶ月前には、みずから発案した大政奉還(幕府の政権を朝廷に返上)を、土佐藩参政の後藤象二郎に託すと、徳川慶喜はその建白を受入れた。これによって、政体の行方は、「幕権回復」を狙う会津と桑名藩。「公議政体」を目指す諸侯連合と徳川、「武力倒幕」の薩長と朝廷の3つに分類できた。龍馬は薩長同盟を成功させながらも、薩長の武力倒幕には同意できずに目指すは「公議政体」である。ここに龍馬と薩長との間には溝が生じた。

 大政奉還後の龍馬は、新政府構想を具体的に進めるため、財政学に長けた越前福井藩の三岡八郎(由利公正)を尋ねたのである。龍馬と三岡の出会いは、龍馬が勝海舟の使者として神戸海軍操練所設立の資金援助を願い出た時で、三岡は藩主に働きかけて資金を調達してくれた恩人である。久しぶりに再開した三岡は謹慎中の身ではあったが、面会を許されて意気投合、三岡に新政府参与の承諾を取り付けて京に戻ったのは、暗殺の10日前のことであった。しかし、龍馬には身を隠す逗留場所がない。

 海援隊本部のある酢屋(材木商)は、伏見奉行に目をつけられ、馴染みの寺田屋はさらに危険であった。そこで何とか見つけたのが、土佐藩邸近くの近江屋(醤油商)だ。万一の場合は、土佐藩邸に身を隠せばいい、と楽観的に考えたのである。それでも寺田屋の女将・お登勢は龍馬を気遣い、近江屋に使いを送り、藩邸に入るように勧めた。

 それでも近江屋に落ち着いた龍馬は、旧幕府の旗本で、外交経験豊富な永井尚志の屋敷を訪ねて面談を重ねた。龍馬の狙いは、旧幕府の逸材にも新政府に参与してほしい、とういう強い希望があったためである。そして近々、京都守護職の会津藩主・松平容保にも面談を願い出る予定であった。しかし、暗殺の日は目前に迫っていた。

■ 龍馬暗殺とその黒幕は・・・

 11月15日夕刻、同志である中岡慎太郎が近江屋に来訪。暫くして、唸る鋭い声が聞こえた。龍馬の世話役で力士の藤吉が斬られて絶命。そして、2階の龍馬と慎太郎は、大刀をつかみ取る間もなく7人の手勢によって悶絶した。龍馬(31)は額を割られ、側頭部の動脈を斬られて出血死の状態であったとされる。慎太郎(29)は苦悶しながら3日後に息絶えた。

 事件後の12月、海援隊と中岡慎太郎の陸援隊は報復に立ち上がった(天満屋事件)。暗殺の黒幕が、いろは丸事件で多額の賠償金を払わされた紀州藩と聞き及んだからである。両隊の手勢15人は、旅籠の天満屋で酒宴に興ずる紀州藩の役人と新選組を急襲、斬り合いとなった。双方に死傷者を出すだけで、真相の究明には至らなかったのである。

 その後、勝海舟の日記と、会津藩重臣・手代木直右衛門(てしおぎすぐえもん)の残した書簡では、暗殺首謀者の名前が一致する。それは手代木の実弟、京都見廻り役の佐
々木只三郎である。また、手代木が死の直前に語った言葉によれば、暗殺の命令を下したのは京都守護職の会津藩主・松平容保その人であった。ということは、暗殺が公務として実行されたことになる。なお、佐々木只三郎は、翌年1月の鳥羽伏見の戦いで遊撃隊長を務め戦死した。享年35

 龍馬の暗殺は、薩長と朝廷の武力倒幕派を勢いづかせ、龍馬が最も望んだ諸侯連合と徳川による公議政体の新国家構想は露と消えた。それでも、龍馬の意志を継いだ人物にあの三岡八郎(由利公正)がいた。新政府に参与した三岡は、龍馬の船中八策を基に「五箇条の御誓文」を起草。さらに、金融財政政策の重職に就いたのである。

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