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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


◉60年前・・・1958(昭和33年) 4月3日
戦災から立ち直った日本ビクター、
国産初のステレオを発売。

 日本ビクター (現・JVCケンウッド) は、アメリカ・ビクター(蓄音機の銘作クレデンザで有名)の全額出資で1927(昭和2年)に設立され、2年後にはRCAに買収されて、その傘下となった。

 日中戦争が泥沼化すると、 RCAは日本に見切りをつけて在日資産と技術者を引き上げた。その見返りに、日本ビクターは、あの犬のマークの商標権を譲り受けた。その後は東芝の子会社として事業を続け、太平洋戦争に至っては、ビクターが敵性語であるとして社名を日本音響と改称し、軍需会社の指定を受けた。

 戦争末期、昭和20年の3月と4月の大空襲で、東京築地の録音スタジオと、東洋一の規模を誇った横浜本社工場は壊滅。戦後はゼロからの出発となったのである。

 その再建に手を貸したのが、松下電器の創業者で社長の松下幸之助であった。幸之助は、GHQによって公職追放の身にあった同郷の野村吉三郎(日米開戦時の駐米大使)を日本ビクターの社長に推挙し、日本ビクターを松下の傘下に置いた。
 再建を託された野村吉三郎は、戦争で途絶えていたRCAとの関係を修復するために渡米して技術協力を取り付けた。

 日本ビクターが、アメリカに遅れること僅か1年で、ステレオレコードを自力で実用化(原盤は輸入)し、その国産初のステレオ「STL-1S」の発売に漕ぎ着けた背景には、 RCAの協力があったと見ていいだろう。発売に先立っては、早稲田大学の大隈講堂で、本邦初のステレオレコード・コンサートを開催して注目された。

 しかし、ステレオレコードの発売は8月と大幅にずれ込んだ。初のリリースとなったのは、エミール・ギレリスのピアノ、フリッツ・ライナー指揮のシカゴ響によるチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」と、キューバが生んだマンボの王様、ペレス・プラ
ードの「ブルー・イン・ウルトラ Hi-Fi」である。

 国産初のステレオ「STL-1S」の価格は77,000円。 当時の大学卒の初任給が13,000円ほどであったから、庶民には手の出ない贅沢品。ステレオレコードの価格も、30cmLPのクラシックが2,800円、ポピュラーが2,500円、17cmLPが900円と高かった。

 翌年には、「皇太子(今上天皇)ご成婚記念」と銘打った47,000円のアンサンブル・ステレオを発売してヒットにつなげ、 「ステレオはビクター」のキャッチフレーズどおりに、業界トップのシェア50%の地位を長らく堅持して一時代を築いたのである。

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この日にはこんな出来事も・・・

◉60年前・・・1948(昭和23年) 4月3日
戦勝国による占領下のベルリンで、
ソ連が陸上輸送の検問を強行。

 ドイツの降伏から1年近くが経過。その首都ベルリンをどう統治するかで、西側3国とソ連との間には大きな隔たりがあった。そしてこの日、ソ連は陸上輸送の検問を強行。
 やがて事態は深刻の度を深め、6月になるとソ連は、陸上輸送を全面封鎖。これに対し、米英は、ベルリン市民の生活を守るために、大規模な空輸作戦を敢行。

 それには、大きな犠牲を伴った。1年に渡った空輸作戦で、輸送機の搭乗員101人が事故で死亡。そしてドイツの東西分裂は、避けられなくなるのである。

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