.


もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


◉150年前・・・慶応4年(1868) 4月11日
江戸城無血開城、江戸を戦火から救った
天璋院篤姫と皇女和宮。

 去る3月14日、幕府全権の勝海舟は、政府軍参謀・西郷吉之助(隆盛)との会談に臨み、江戸総攻撃を土壇場で回避した。それでも、万が一に備え、この日を背水の陣で迎えたのである。その備えとは、江戸市中に火を放ち、政府軍を迎え撃つ作戦である。そのために江戸市民を避難させる船も用意していた。

 江戸城では、老中も若年寄も登城しない有様で、実質的なあるじは、1,000人の奥女中を束ねる大奥の天璋院篤姫(31)と皇女和宮(21)であった。この二人の決断が、江戸総攻撃を一方で回避していたのである。

 当初、天璋院は、徳川の嫁の務めとして、戦は避けられないものとしていた。いっそうのこと慶喜を焚きつけて、一戦を交えることも考えた。幕府は、最新鋭の軍艦「開陽丸」を擁し、フランスの支援で訓練された精鋭兵力も健在であった。一方、和宮は、すでに江戸城に留まる理由はなく、京に戻るのが筋ではないか、とも考えていた。

 ところが、二人の考えには共通の選択肢があった。「民のために江戸を焦土としてはならい」ということである。天璋院は、かつての家臣・西郷吉之助宛に総攻撃を踏みとどまるよう、長文の書状を書き送った。和宮も、幼少のころから知る岩倉具定(政府軍先鋒隊の総督)宛に、進軍を止めるよう書状を書き送って訴えた。

 天璋院は、主戦論を主張する幕臣に対しても異例の通達を出し、「もし、不心得者がいると徳川家の一大事となる。これまでの努力も無に帰すので、心違いなく静謐を保つように・・・」と。また和宮も、「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家の忠節であり、家名を守ることになる・・・」と幕臣たちの説得に務めた。

 政府軍が、江戸城に入城すると、大奥は美しくしつらえられていたという。ここに鎌倉以来700年にわたり続いた武士の世は幕を引いた。江戸が焦土となっていたなら、東京遷都も明治の近代化も、おぼつかなかったはずである。

 なお、新政府に朝敵の烙印を押された最後の将軍・徳川慶喜(30)は、蟄居していた上野の寛永寺をこの11日に発ち、水戸で謹慎することとなった・・・。

< 欲しいが見つかる !! ポイント貯まる !! >
この日にはこんな出来事も・・・

◉67年前・・・1951(昭和26年) 4月11日
GHQの総司令官 ダグラス・マッカーサー、
トルーマン大統領との対立で解任。

 朝鮮戦争は中国軍の介入以来、一進一退の攻防が続いていた。連合国最高司令官のマ
ッカーサー元帥は、中国への核攻撃をトルーマン大統領に進言・・・。しかし、大統領は、第三次世界大戦になりかねないとして、マッカーサー解任の決定を下した。

 この決定に日本政府は、衆参両院でこれまでの占領政策に対し、感謝の意を示す決議を可決。 マッカーサーが日本を離れる16日には、20万の市民が沿道を埋めて別れを惜しみ、涙ながらに見送ったのである。

◀ステレオの産業史 TOP



当ホームページに掲載の画像及び文書の無断転載を禁じます。Copyright (C) 2018 ステレオの産業史 All Rights Reserved.