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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


◉74年前・・・1944(昭和19年) 4月17日
投入兵力50万、日本陸軍史上最大の
「中国打通作戦」発動。

 すでに、南太平洋の島々では、日本軍守備隊の玉砕が相次ぎ、東南アジアからの資源輸送も米潜水艦の出没によって、完全に絶たれていた。一方、中国の占領地では、国民党軍と八路軍(共産軍)がすでに手を結び、米英の支援を受けて、日本軍の攻勢にも怯むことがなかった。

 この最悪の局面を打開すべく企図されたのが「中国打通作戦」である。 打通とは貫通の意味で、分断されたままの中国大陸の鉄道を一本で結び、さらには、ベトナム、カンボジア、タイ、そしてビルマ(ミ
ャンマー)の鉄道につなげ、最終的には朝鮮半島を縦断し、鉄道連絡船で本土と結び資源輸送を確保する、というなんとも荒唐無稽な作戦である。

 正式な作戦名は一号作戦。投入兵力は50万、進軍する距離2,400キロ(北海道最北端から沖縄までの距離に相当)。かつてない大規模な動員作戦である。しかも、本土防衛のためにと、鉄道沿線の米軍航空基
地を攻撃し、奪取する作戦までが盛り込まれた。

 といったところで、日本陸軍の装備は日露戦争当時のものに毛の生えた程度のもの。ましてや、50万の将兵を賄う十分な兵站など望むべくもない。主力は、もっぱら馬と歩兵。 しかも歩兵は、馬よりも酷使された。当然、食料は現地調達。いわゆる略奪である。 兵士たちは、「焼光=焼きつくせ」、「槍光=奪いつくせ」、「殺光=殺しつくせ」の命令をもって、不眠不休の行軍と闇雲な戦闘に明け暮れたのである。

 作戦途上の6月、四川省から飛び立った32機の空の要塞B29が、初めて九州の博多を空爆。さらに、7月にはサイパンが玉砕し、 日本全土が B29の空爆エリアに入った。 ここに、 同作戦の目的は、事実上瓦解した。

 しかし、作戦は、面目だけの消耗戦として続行され、中止命令が出されたのは、同年12月10日のことであった。日本軍の戦死及び戦病死は10万、中国軍と人民の死傷者は100万を超えた、と言われている。

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この日にはこんな出来事も・・・

◉123年前・・・1895(明治28年) 4月17日
日清講和条約調印、
勝利に味を占めた明治政府に冷水。

 日清戦争は、朝鮮の内乱に乗じ、朝鮮独立を名目にして、宗主国である清に日本が一方的に戦争を仕掛けてものである。しかも、日本軍は、朝鮮の市民たちにスパイの疑惑をかけ容赦なく虐殺している。

 ともかく、大国の清と有利に戦った日本は、全権の伊藤博文らによって、この日、清との講和条約が下関で調印された。

 しかし後に、露・仏・独の三国が、日本の獲得した遼東半島を中国に返還するよう、明治政府に強く抗議。いわゆる三国干渉によって、渋々、返還に応じるのである。

 これを教訓に明治政府は、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」のスローガンを国民に植えつけた。その意味は「復習するまでは我慢」ということ。これが、9年後の日露戦争につながった。

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