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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


150年前・・・慶応4年(1868) 4月25日
新選組の近藤勇、罪人として斬首獄門(晒し首)。

 周知のとおり、近藤勇は隊士40名ほどを束ねる京都守護の治安組織、新選組のトップである。

 近藤は、ナンバーツーの土方歳三と共に、江戸武蔵野の農民の出。武士の嗜みの剣法とは違い、実践的剣法の使い手である。ラストサムライといわれる所以がそこにあった。
 幕末の京都は、尊皇攘夷を叫ぶ無頼が跋扈。中でも松下村塾の塾生、久坂玄瑞(蛤御門の変で自決、享年24)は、朝廷に擦り寄り、内乱の火種をまき散らしていた。

 新選組結成の当初は私設の治安組織にすぎなかったが、京都守護職として赴いた会津藩主・松平容保の指揮下に入り、公的な組織に格上げされ、さらには、幕臣に取り立てられて栄達を重ねた。

 ところが、幕府の開明政策に理解を示すようになった孝明天皇の急死(公家・岩倉具視の毒殺説が有力)で時代は急変。前年には、将軍徳川慶喜が大政奉還を決断。そして明けたこの年、京都の鳥羽と伏見で新政府軍と幕府軍が武力衝突。一新を決する戊辰戦争の火蓋が切られた。
 この時、近藤は病臥にあった。当然、隊士の士気は落ち、新政府軍の攻勢に離反者が相次いで敗走。已むなく近藤と土方は、船で江戸に戻り、幕府と会津藩から軍資金を得て、新たに「甲陽鎮撫隊」を結成した。近藤勇は大久保大和と名前を変え、隊士を募りながら下総国流山(千葉県流山市)に陣を置いた。

 しかし、新政府軍に正体を見破られて捕縛。近藤の裁断には意見が分かれ、薩摩藩は混乱を招くとして穏便な措置を求めたが、土佐藩は、罪人として斬首以外にない、として譲らなかった。理由は、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺が、新選組の仕業と確信して疑わなかったからである。結局、土佐藩の主張が通り、近藤は、 この日、新政府軍の本営で斬首されて晒された。さらに、塩漬けにされた首は京都に送られ、鴨川の三条河原でも晒されたのである。

 草莽の武士として重ねた栄達は、見るも無残に葬られた。遺された辞世の句は「快く受けん電光三尺の剣 只まさに一死をもって君恩に報いん」。 この4月25日(旧暦)で150回忌となる。

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この日にはこんな出来事も・・・

◉73年前・・・1945(昭和20年) 4月25日
エルベの誓い・・・、
米ソ両軍が歴戦を讃え合い握手。

 アメリカは、ノルマンディー上陸から1年と11ヶ月。ソ連は、 スターリングラードでドイツに勝利してから2年と3ヶ月となる。ここに両軍は、ドイツ東部のエルベ川の河畔、ドルガウで出会うと、歴戦を讃え合い、平和の訪れることを誓い合った・・・。 これで、ドイツの降伏は、目前に迫った。

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