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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


66年前・・・1952(昭和27) 5月1日
血のメーデー、安保条約付きの講和に民衆の怒りが暴発・・・。
 メーデー( May Day )とは「5月の日」ということ。元々は、ヨーロッパ伝統の祭事であった。長い冬が終わり、夏を迎えることを祝ったものだ。それが、イギリスの産業革命によって、工場労働者が急増すると、いつしか『労働者の祭典』となって、遅まきながらも大正の日本にも伝わり、大正デモクラシーに先鞭をつけたのである。

 しかし、自由思想を危険視する治安維持法の強化でメーデーは厳しく制限された。戦後に復活した第一回メーデーでは、国民の困窮が爆発。 「天皇はたらふく食ってるぞ、米をよこせ」と皇居前広場の大乱闘となった。 そして、この日の「流血メーデー」は、去る4月28日に施行された対日講和条約に伴う日米安保条約への怒りの暴発であった。

 アメリカは、戦後の日本に民主主義を根付かせ、日本独立の先鋒に立ってくれた。しかも、憲法第9条のお陰で、日本は戦力を保持しない代わりに、アメリカに基地を提供し、日本の安全保障をアメリカに託した。

 自力で戦後の再建を目指さなければならぬ日本にとっては、願ったり叶ったりの条約である。しかも、朝鮮戦争の特需景気のお陰で、再建には大きな弾みがついていた。

 しかし、学生と民衆は政府の判断に疑念をもった。神宮外苑で始まったメーデーが散会すると、都学連ら約2千人のデモ隊が、日比谷交差点で警官隊と衝突。これに呼応した日本共産党員、在京朝鮮人、日雇労働者らが合流。その総数は、6千人余りに膨れあがり、暴徒と化して皇居前広場になだれ込んだのである。防戦一方の警官隊は、やむなく催涙ガスを使用、ついには拳銃を発砲してデモ隊の一人が死亡。それでもひるまぬデモ隊は、警察と米軍の車両42台を破壊し、濠に突き落とされる警官隊もかなりいた。

 夕方の6時頃にはなんとか鎮圧したものの、同夜の都内は、戒厳令さながらの物々しい緊迫した空気に包まれた。翌日、警視総監は緊急の会見で、デモの煽動者及び関与者の徹底検挙を行うと明言。

 日本共産党の幹部や都議、さらには、高校の教諭らが次々検挙され、日共系の労働組合と朝鮮人集落にも強制捜査の手が伸びて、根こそぎに検挙されていった。これで、警視庁の面子を賭けた血のメーデー事件の捜査は、一応の終結をみたのである。

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この日にはこんな出来事も・・・

◉125年前・・・1893(明治26年) 5月1日
交流電気を世界で初めて使ったシカゴ万博。

 直流電気の電送事業を進める発明王のエジソン(46)。一方、エジソンのライバル、テスラ(36)は、難解な科学計算式を駆使して不可能とされた交流電気を現実のものとした。この二つの電気を巡っては、熾烈な「電力戦争」が繰り広げられていたのである。

 そして、この日に開幕したシカゴ万博では、交流電気が世界で初めて採用された。その理由は、電圧を自在に変圧できることから、送配電のコストが直流電気よりも遥かに安いこと。これを機に、テスラの交流電気は、エジソンの直流電気にとって代わり、一般の家庭にも一気に普及していった。

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