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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


73年前・・・1945(昭和20年) 5月17日
九州帝国大医学部、米兵捕虜8人を生体解剖。

 じり貧の戦局に追い込まれた日本の主要都市は、京都や広島を除いて焦土と化し、本土防衛の捨て石にされた沖縄の戦闘は、壮絶の極みにあった。
 この逼迫した時局に捕虜の生体解剖を行ったのが九州帝大医学部である。

 その対象となったのは、撃墜されたB29の若き搭乗員12名で、当初は東京に移送する予定であった。しかし、鉄道は寸断され、艦載機による空襲も予断を許さず、見送りとなっていた。

 それが、「捕虜の移送が困難ならば適当に処置せよ」との暗号電報が、軍中央から送られてきたのである。

 これを知った、九州帝大医学部外科部長の石山福二郎教授は、捕虜の生体解剖を司令部の大佐と軍医に持ちかけ、すぐに承諾を得たのであった。協力を求めた看護婦長と医学生には、『無差別爆撃は国際法違反である 銃殺に処すより医学のために供した方がいい 心配はするな』と説き伏せた。

(註/国際法に違反した無差別爆撃は、日本が先鞭をつけた。1937年8月、首都南京に渡洋爆撃を敢行した日本海軍は「世界航空機史上未曾有の大戦果」と胸を張った)

  B29の捕虜の内、4人は裁判も経ずに銃殺され、残った8人が、この日のために生かされていたのである。

 事実が発覚したのは戦後。裁判は横浜軍事法廷で開かれ、首謀者の石山教授は判決を前に独房で自殺、5人が絞首刑、解剖に立ち会った医師と軍人ら18名が有罪となった。また、戦争末期のこの時期、墜落したB29の搭乗員が、住民たちになぶり殺しにされる事件も起きている。

 戦後69年経った2014年夏、生体解剖に関与した元医学部助手の科医・東野利夫氏は、残された証言や貴重な資料を自費でまとめあげ、母校である九州大学に新設された医学資料館に展示した。

 歴史とは、悪しき事実も隠さずに伝え残してこそ後世への良き指針となり、しいては国際社会の信用も定着する。ところが、首相のあの人には、その認識がまるでない。その結果が、日本抜きで進む朝鮮半島和平化への道だ。拉致被害者家族にしてみれば、望みを絶たれたに等しい最悪のシナリオなのである。
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この日にはこんな出来事も・・・

◉153年前・・・慶応元年(1865) 5月17日
失職の坂本竜馬、亀山社中を結成 しかし・・・。

 この年の3月、幕臣・勝海舟の失脚で神戸海軍操練所が閉鎖。所長だった坂本竜馬と訓練生たちは行き場を失った。その龍馬に手を貸したのが、薩摩の西郷吉之助 (隆盛) と小松帯刀で、支援者には長崎の実業家・小曽根乾堂(こそね けんどう)がいた。

 そのおかげで、イギリスのグラバー商会とコネができた。しかし2年後、薩摩藩の援助で、オランダから購入したワイルウェフ号が嵐で沈没。乗船していた同士全員を失い多額の借金だけが残った。

 この窮状を知って手を貸したのが、竜馬とは因縁浅からぬ土佐藩家老・後藤象二郎だ。竜馬は趣意書をしたため 「海援隊」を結成した。脱藩浪士・坂本竜馬は、運を引き寄せる男である。その運もその年の11月、命と共に断たれてしまう・・・。

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