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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


144年前・・・1874(明治7年) 5月22日
明治政府、初の海外出兵。台湾西南部に奇襲上陸。

 これは西郷隆盛の実弟で陸軍中将の従道(30)が独断で決行。 これを政府が追認することになった。出兵の理由は「台湾征討」である。

 何故、台湾を征討する必要があったのか。それは3年前に遡る。琉球の船が難破し、台湾に漂着した乗員54人が、原住民のパイワン族に殺害されたことへの報復であった。

 しかし、日本人が殺害されたわけではない。しかも、3年前もの出来事である。いわゆる「征討」は見せかけで、あわよくば「台湾を占領してしまえ」というのが、従道の魂胆であった。なお、当時の琉球は清国を宗主国とし、また、薩摩藩の管轄地でもあった。
(註/琉球は明治5年、明治政府の恫喝で併合され、明治12年、沖縄県の設置に至る)

 去る、5月4日、従道の独断で長崎を出港した軍艦5隻と、運搬船13隻に分乗した3,600人余りの部隊は、この日、台湾・西南部に奇襲上陸を敢行した。

 軍医として従軍した落合泰蔵の「生蕃(野蛮人)討伐回顧録」によると、「我が討伐兵は12の首級を得て、その首を青竹に縛り付け、意気揚々と隊に戻った」とあるから、どちらが野蛮人なのか分からない。

 緒戦こそ、優位にことを運んだ日本軍に、思わぬ災いが降りかかるのである。熱帯特有のマラリアとチフスだ。尻丸出しで垂れ流す兵が続出し、これが衛生状態の悪化に拍車を掛けた。戦闘による戦死者が12人であったのに対し、 この疾病による斃死は560人にも及んだ。

 結局、明治政府はイギリス公使に泣きつき、その調停のおかげで内務卿の大久保利通(45)が北京に赴き、外交上の決着をつけたうえに、まんまと賠償金までせしめたのである。そもそも、台湾出兵の立案者は、当の大久保本人であった。

 イギリス公使のパークスは、外務卿の寺島に皮肉を込めて言った。「台湾の出兵は、野蛮国である日本が、野蛮国の清に無理やり戦闘を仕掛けた」と。また、「軍隊が独断で行動を起こすのは、明らかに万国公法に反した行為」と戒めたのである。

 台湾出兵は、日本人の記憶から消え去ってしまっているようだ。日本人観光客に人気の台湾では、この日を「日本侵略の日」として歴史に刻んでいる。侵略された側は、言葉にこそ出さないが決して忘れてはいない。それは、アジアのどの国でも同じだ。

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この日にはこんな出来事も・・・

◉72年前・・・1946(昭和21) 5月22日
戦後政治の基盤を築いた、第一次 吉田茂 内閣が発足。

 戦前、外交官だった吉田茂は、対中国政策においては、軍部よりも強行であった。それが、戦時下、終戦工作が露見して逮捕されたことが、GHQの好感を良くした。

 戦後の内閣では外相を歴任。そして、この日、吉田茂(67)を首班とする内閣が誕生した。以来、4期に渡り首班指名を受けたのは、吉田茂ただ一人である。

 それゆえに、吉田学校なる強固な派閥が出来上がり、戦後政治の基盤を築き上げた。その吉田を知謀者として終始支えたのが、ケンブリッジで仕込んだブリティッシュ・イングリッシュを自在に操る白州次郎であった。

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