.


もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


161年前・・・安政4年(1857) 5月26日
初代アメリカ総領事のハリス、幕府を説き伏せ「下田協約」を締結。

 2年前、ペリー提督と交わされた日米和親条約の後、初の領事館が開設されて10ヶ月。 のらりくらりの幕府を相手に、9ヶ条からなる下田協約 (和親条約の補修条約) が、総領事のハリス(54)と下田奉行との間で取り交わされた。

 その協約の主な条項は、貨幣の交換比率、アメリカ人の居住権、長崎開港、領事裁判権等々を定めたものである。

 ここに至るまでのハリスの苦労は大変なものであった。何せ幕府は和親条約の条項をまったく理解していない・・・。同条約では、総領事の駐在が認められており、ハリスの来日は、それにも基づくものであった。しかし幕府は、ハリスの来日に眉をひそめ、なんとか追い返すよう下田奉行に命じていたである。

 そんなこんなで、4ヶ月が無駄に過ぎた。ハリスの苛立ちは日増しに募り、結局、江戸の老中に直接書状を送った。

 「これ以上 交渉を引き伸ばせば、他国が武力をもって貴国に開国を迫り多大な被害をもたらすであろう」と忠告。すると幕府は、あっさりと、交渉の開始に応じてきたのである。こんな異国でのハリスの生活を支え、日本の慣習を教えたのが、小説「唐人お吉」で知られる下田の芸者であった。

 そして同年10月には、将軍家定に謁見。翌年6月には、念願の日米修好通商条約の締結を成し遂げるのである。それに伴い、イギリス、オランダ、ロシア、フランスとの締結へと道を広げた。

 ところが、攘夷派の無法なテロが相次ぐなかで、ハリスの右腕である通訳官のヘンリー・ヒュースケン(29)が、薩摩藩士の凶刃に命を絶たれる悲劇に見舞われたのある。

 イギリス及び各国の公使は、幕府への報復を露わにした。しかし、これを制止したのが悲しみに渦中にいるハリスであった。ハリスは、イギリス公使に一通の手紙を送っている。「われわれが江戸に滞在できたのは、日本政府(幕府)の努力によるものである。報復によってせっかく結んだ条約を無にしてはならない」と。こうして、紛争の火種は、かろうじて消し止められたのである。

< 欲しいが見つかる !! ポイント貯まる !! >
この日にはこんな出来事も・・・

◉84年前・・・1924(大正13) 5月26日
アメリカ、日本人の移民を禁止。

 前年の関東大震災で、アメリカは日本に多額の資金援助をもたらした。ところが、共和党のカルビン・クーリッジ大統領は、震災時の朝鮮人殺害や、日本が中国侵略の意図を強めていることを危惧し、日本人の移民を事実上禁止する新移民法に署名した。
このことによって、日本海軍は、アメリカを仮想敵国とするのである。

◀ステレオの産業史 TOP



当ホームページに掲載の画像及び文書の無断転載を禁じます。Copyright (C) 2018 ステレオの産業史 All Rights Reserved.