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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


100年前・・・1918(大正7年) 6月1日
第一次大戦下の捕虜収容所にこだました本邦初の「第九」。

 日本が第一世界大戦に参戦して4年、中国のドイツ租借地で捕虜となったドイツ兵4,715人の内、約1,000人ほどが、この徳島県鳴門の坂東俘虜収容所にいた。

 そもそも、第一次世界大戦は、ヨーロッパの民族対立によって、オーストリアの大公が暗殺されたことをきっかけに、ヨーロッパが二つの陣営に分裂して始まった。
 いわば、日本にとっては、脈絡のカケラもない地球の裏側で始まった戦争である。にも関わらず、日本政府がドイツに宣戦布告した訳、それは守りの手薄になった中国におけるドイツ租借地の利権、つまり漁夫の利に目をつけたからである。当然、イギリス政府は日本の参戦意思に深い疑念をもった。それでも日本政府は、日英同盟を理由に参戦をしつこく迫り、イギリス政府を承諾させたのである。

 さて、坂東俘虜収容所のドイツ兵捕虜の職業は様々で、楽器づくりの職人やオーケストラの楽員もいた。収容所は薄い板をはぎ合わせたバラックづくりで、食料は酪農や菜園の自給自足で賄われた。収容所所長の松江豊寿陸軍中佐は、捕虜たちの自主的活動を大いに奨励し、在日の民間ドイツ人から、楽譜と楽器を借り受けてオーケストラの結成にこぎ着けたのである。

 練習は、その日の労働が終わった僅かな時間。それでも、練習の成果は日ごとに上がり、収容所の所長からも、演奏許可を得たのである。演奏曲は、ベートヴェンの「交響曲第九番」だ。

 手に入らない楽器は代用楽器で。合唱はすべてが男。ソプラノのパートは、音程を下げるなど、楽譜の手直しも必要であった。そして、この日、本邦初の第九が収容所にこだましたのである。

 捕虜たちの第九の評判は県外にも広がり、福岡の高等女学校で再演。その後も演奏依頼が相次ぐのであった・・・・。

 なお、ヨーロッパにおける戦争は、同年11月11日に連合国とドイツとで休戦協定が結ばれた。しかし、西部戦線では領土を巡っての局地的な戦闘が続き、翌年6月28日のヴェルサイユ条約の締結によって、ようやく講和に漕ぎ着けたのである。

 これにより日本政府は、当初の思惑通りに中国におけるドイツ租借地の利権をまんまと手にし、また、ドイツ領であった南洋諸島の委任統治権も手にしたのである。

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この日にはこんな出来事も・・・

◉59年前・・・1959(昭和34年) 6月1日
最高級一眼レフカメラ「ニコンF」発売。

 戦後、世界を席巻した国産品といえば、ソニーのトランジスターラジオとカメラであった。なかでも、日本光学の一眼レフカメラ「ニコンF」が発売されると、たちまちにして、世界のプロカメラマン必携の定番カメラとなった。どんな撮影をも可能にする豊富なアクセサリー群と、その信頼性の高さは、やがて、ドイツの名門、ライカを衰退に追い込むのである。

 日本光学は、大正6年、ドイツの技術者を招いて、三菱の資本で設立された。高度な光学機器のほぼすべては軍御用達で、戦艦大和の艦橋トップにある巨大な測距儀も同社の手になった。

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