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もう一つの真実・・・

歴史の断片(随時更新)


79年前・・・1939(昭和14年) 6月10日
無差別爆撃の先例を歴史に刻んだ日本・・・。

 1937年(昭和12)12月、日本軍が中国(蒋介石国民党)の首都・南京を攻略してから1年、首相の近衛は、中国との和平協議を中国駐在のドイツ大使を仲介に進めてきたが、話が行き詰まると、一方的に協議を中止。日本が中国に突きつけた条件が余りにもひどすぎたのである。

 南京から撤退した蒋介石は、揚子江を遡って武漢に脱出。日本軍が追撃すると、蒋介石はさらに内陸の重慶を暫定首都とした。そこで日本軍は、兵站に無理があるとして陸路の追撃を諦め、陸海軍の爆撃機による渡洋爆撃に戦略を切り替えたのである。

 渡洋爆撃とは、長崎から飛び立った九六式陸上爆撃機が、高度5,300㍍の上空から行うもので、当時の新聞は、その戦果を華々しく報じた。

 但し、これが初めてではない。南京攻略を前に上海・南京の市民を巻き添えに殺傷していた。国際連盟は、日本への非難決議を満場一致で採択したが、すでに国際連盟を脱退していた日本は、この非難決議を公然と無視し続けたのである。

 そして重慶への渡洋爆撃(1938年12月~1943年8月)は、次第に激しさを増し、通常爆弾に加えて焼夷弾が使われた。それは明らかに市民の無差別な殺戮が目的であった。
 その事実を、裏付けてみせたのが、昨年の5月に放映された日本テレビの「NNNドキ
ュメント」である。 防衛省防衛研究所に保管されている陸軍航空本部作成の「航空部隊用法」には、「直接その住民を空襲し、敵国民に多大な恐怖を与え、その戦争意思を挫折させること・・・」とある。それは、渡洋爆撃の実行以前に、軍の方針として決定されていた、という事実を、作成年月日が示していた。

 日本が先例をつくった無差別爆撃は、とりわけ、アメリカの対日観の悪化に油を注いだ。ルーズベルト大統領の側近や閣僚の中には、「東京を火の海にして同じ苦しみを味わせる必要がある」と公言する者も少なくなかった。結果、日本が奇襲で先手を打った太平洋戦争の末期において、日本の主要都市は焦土と化し、2発の原爆によってトドメをさされた。歴史の因果応報とは、まさにこのことである。

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この日にはこんな出来事も・・・

◉153年前・・・1865(慶応元年) 6月10日
リヒャルト・ワグナーの楽劇、「トリスタンとイゾルデ」初演。

 全曲の完成から、初演が実現するまで、実に6年を要した。何しろ4時間もの大作である。当時、ワグナーは、莫大な借金を抱え、しかも、革命に加担したことで、ドイツを逃れ、スイスに亡命していた。初演の機会を与えたのは、ワグナーに心酔するバイエルン国王・ルートヴィッヒ2世の全面的な支援によるものである。

 会場は、ミュンヘンのバイエンルン宮廷歌劇場。指揮はワグナー支持者のハンス・フォン・ビュローで、初演の評価は上々であった。 しかし、私生活では、ビュローの妻、コジマとの愛を深め、すでに娘イゾルデをもうけていた・・・。

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